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母公堂

今から1300有余年前の白鳳年間、役行者という山岳修験者が、熊野本宮から大峯山脈を南から北の大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。

この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。

弟子の前鬼を通じてこのことを知った孝行心の篤い役行者は、悩みに悩んだ末、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来る。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろう。早速、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。

また、その際に重ねて母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、一千三百有余年後現在も守り続けられている歴史の重みであります。これは「女性差別的」な解釈でなく、役行者の母を思う優しい心の現れであると、私ども後鬼の子孫は考えています。

施設情報

所在地 洞川
定休日 不定休